ホスピスナースは今日も行く
アメリカ在住日本人ナースが、ホスピスで出会った普通の人々の素敵な人生をおすそわけします。
タフガイの苦悩 (3)
 ホスピスの患者さんの誰もが自分の死を受け入れているとは限りません。自分の存在がこの世界から消滅すると言う事は、客観的には想像できても、自分自身にとってそれがどういうことなのかは、生きている限り知ることはできないからです。ビルさんは、自分の心臓が限界に近付いてきていると、客観的には理解できても、それが実際に止まった時のことをなかなか受け入れられませんでした。薬を調整し、少しずつ眩暈が改善されて気分が良くなってきたビルさんは、再びミルリノンについて口にしなくなっていきました。私は彼から振ってこない限り、ミルリノンについては何も言わず、調子のよい日はより楽しんで、調子のよくない日は無理せず休む、身体の言うことを聞いて、息切れするのであれば酸素やモルヒネを使い、いちいちどういう意味なのかを分析せず、その日その日が「新しい普通」だと思って過ごすように勧めました。しかし、ビルさんはできるだけ薬や酸素に頼りたくないと言い、私がどうしてなのか訊ねると、「一度頼ったら元に戻れなくなるから」と言うのです。「元に戻れなくなる、と言うのは、どういう意味ですか?」と訊くと、ビルさんは“何をわかりきった事を言っているんだ”と言うような表情で、「だから、一度使ったらずうっと使わないとならなくなるって言う意味だよ」と言いました。私は、「でも、もし酸素やモルヒネを使う事で呼吸が楽になって、気分がよくなったら、その方がよくないですか?同じ24時間を過ごすとしたら、薬や酸素を使っても呼吸が楽で何かできるのと、それらを使わないで息切れしないように何もしないでいるのと、どっちがいいですか?」と訊ねました。するとビルさんは、私をじっと見てから、「なかなか鋭い質問だね。言われてみたら、そりゃそうだ。ただね、モルヒネは麻薬だろ。僕は麻薬でひどい事になった人達をさんざん見たからね」と言ったのです。ああ、やっぱりそこか、と思いながら、私は一枚のプリントを取り出して、ビルさんに渡しながら言いました。「これは、一般の人達が思い込んでいるモルヒネの“社会通念”と“事実”の違いを説明しています。モルヒネは確かにとても強力な麻薬ですが、きちんと使えばとても効果的な、素晴しい薬です。恐らくビルさんが心配されているのは依存症の事だと思いますが、ここにも書かれている通り、症状緩和のために必要な用量を使う事で依存症になる事はありません。それに、ビルさんが使う用量は微量で、言ってみれば初心者用量ですよ。」ビルさんはふーむ、としばらく唇を結んでから、こう言いました。「でも、一度使い始めたら身体がそれに頼ってしまうんじゃないか?キリがなくなるんじゃないか?」私が、「確かに長く使えば身体は慣れてきます。同時に、症状そのものも進行していきます。そうしたら、量を増やせばいいんです。効果がある用量が適量であって、モルヒネの特徴はその適量に天井がないことなんです。もちろん副作用はあります。そして殆どの人が避けられない副作用は、便秘です。でも、それも緩下剤をうまく使ってコントロールできますから」と答えると、ビルさんは渡したプリントを見ながら、「知らなかったよ。僕は麻薬って言うだけで、嫌悪感を持っていたからね。ちょっと考え直さなくちゃな」と言いました。私は、冷蔵庫にあるコンフォートパックと言われる緊急時用の薬が入っている箱から液体モルヒネを取り出すと、一回分の用量を針のない注射器で吸い上げて、ビルさんと奥さんに見せました。二人は、「これだけ!?」と驚き、私は「これを呼吸が苦しくなったら舌の下に落として下さい。味がいやだったら少し水やジュースを飲んでも構いません。人によっては1-2分で効果が現れる人もいますが、大抵5分ほどで息が楽になってくるはずです。そのあと少し眠くなるかもしれませんが、それも副作用の一つなので、心配しないで下さい。必要であれば、今のオーダーでは3時間おきに使っていい事になっていますから」と続けました。ビルさんは、「わかった。でも、もし効かなかったらどうするんだ?」と言い、私は「そうですね、20分経っても呼吸が楽にならなかったら、ホスピスに電話して下さい」と言うと、彼は頷いてから奥さんのほうを向き、「今の、聞いてたかい?」と訊きました。奥さんは、「ちゃんと聞いてましたよ。よくわかりましたよ」と言って私を見ると、ちょっと意味ありげに微笑みました。
 そして、その日の訪問を終えると、奥さんは「下から郵便物を取ってくる」と言って、私と一緒に部屋を出ました。エレベーターで二人きりになると、奥さんはそれでも声を抑えながらこう言いました。「モルヒネを使うって言う事は、最終段階って言う事なんでしょ?モルヒネを使い始めたら終わりだ、ってよく聞くから。正直、あとどれくらいなのかしら?」私は、「そうですね、何をもって最終段階と言うかにもよりますが、モルヒネを使って呼吸を楽にする事は特別な事じゃありません。むしろ、ビルさんの心臓の状態で今まで使わずにいたことの方が驚きです。きっと、ビルさんも一度使ってみてその効果を感じたら、納得すると思いますよ。呼吸を楽にする事は、心臓の負担を減らす事にもなるわけですから、モルヒネを使い始めたら終わり、って言うのは正確じゃないですね。モルヒネを使う事で命を縮める事はないし、もう先が短いからモルヒネを使うと言う事でもないんです。純粋に、症状緩和の為なんですよ」と言うと、奥さんはホッとしたように「そうなのね。そう言うこと何も知らないから、本当に助かるわ」と言って、今度は安心したように微笑みました。
 こうして、一進一退を繰り返しながら、ビルさんはやがてモルヒネを使うようになり、酸素も夜間だけでなく昼間も一時的に使うようになっていきました。いったん使ってみると、想像以上の効果に感心すると同時に、薬に頼らなければならなくなってしまった事がどうしても口惜しいらしく、ビルさんは「俺も焼きが回ったなあ」と呟くのでした。調子の悪い日は気分も落ち込みがちで「ここに座っているだけじゃ、何の為に生きているのか、意味がないよ」と嘆く事もありました。私が、「ビルさんは、何か楽しみはないんですか?何かしたいこととか、好きだった事とか、ないんですか?」と訊くと、「そんなものはもう、どれもこれもできないからね」と言い、「例えばどんな事ですか?」と畳み掛けると、少し考えて「たとえば、僕はビールが好きでね。以前は毎晩飲んでいたんだ。また、あんな風にビールが飲めたら嬉しいけどね」と言ったのです。私が「だったら飲めばいいじゃないですか」と言うと、ビルさんは大きな目を見開いて、「えっ?」と言ってから、「飲んでもいいのかい?」と意外そうに言いました。「全然問題ないですよ。ただ、モルヒネと一緒に飲むのはダメですけどね」と言うと、「もちろんそんな事はしないさ。でも、なんだ、ビールを飲んでもよかったんだ」と言ってから、奥さんに向かって「今の聞いただろう。僕はビールを飲んでもいいらしいぞ」と嬉しそうに言ったのです。奥さんもニコニコして、「確かに聞きましたよ。よかったわね」と言い、「今度、フランキー(弟さん)とご飯に行く時、一杯やったらどうですか」と勧めました。ビルさんは私に向かって、「僕と弟は週に一度、一緒に外で飯を食う習慣でね。もう、10年以上、殆ど欠かしたことはないんだよ」と言い、それから「フランキーと一緒にビールを飲めるのかあ」と、感慨深げに呟きました。タフガイの苦悩(4)に続く。
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[2017/09/02 23:20] | 忘れられない人々 | トラックバック(0) | コメント(0)
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Author:ラプレツィオーサ伸子
アメリカ東海岸で在宅ホスピスナースをしています。アメリカ人の夫、子供3人、犬一匹と日々奮闘中。

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